自身の地元でもある横浜市に在る『大倉山』にて
街を支えてきた重鎮の方にインタビューをしてきた。
現在まで5名を終え、一段落といったところだ。
この大倉山という街が形成されてきた歴史の中で、
たくさんの思いとエピソードを1名あたり2時間以上にわたりお話をきいた。
ほとんどの方が齢80歳を過ぎておりその半生をまとめたお話は、
とても重く、本来なら2時間の取材時間ですまないのだが、
要領よくまとめて頂いたことに誠に感謝いたします。
空襲で3つの家しか残らなかったとか、通りの歩道を作ったとか、
歴史的にもすごく重大な事をまとめて話してもらっている。
そして彼らは最後の戦争体験者でもあり、貴重なお話を伺える機会であった。
大倉山、そこは、横浜市港北にある田舎街だ。
元来農村であり、商店街も無かった場所。当時数少ない地主らは、戦後、GHQから役割を与えられ商店を形成したというのが、街のはじまり。
※当時、商店が無い頃は、抽選で、蕎麦屋やら八百屋やら魚屋やらを分担させられるという仕組みがあったとか。
商店が発展し、人が住み、駅ができる。
戦後の近代化事業によって、より暮らしやすい環境になり、住宅が増え、教育機関ができ、企業が土地を買い、その街の経済がまわっていく。
その過程で、街作りにたまたま関わった人、商売を始める人、公の人間として地域経済を動かす人、コミュニティを形成する人、それぞれに苦労があり想いがあり、そして今日がある。
●ある重鎮のお話
「大倉山で街作りをすることになって、商店街の建物のリニューアルから道路から
参加する場面に立ち会ってきました。しかも割と責任の重い立場で。」
「その後、街作り事業が成功し、景気もよくなると、全国の地域や街から講演の
依頼がくるんです」
「まあ、それが恥ずかしいっていうか、なんていうか。
別に自分は街作りのプロでもないし、元々農家で、戦後に商店を始めただけ。
正直、儲けてやろうとか目立ってやろうとか、そんな気持ちでしかなく、
街を興そうなんて大層に考えてないんですよ」
「だから、講演っていっても、いい加減に盛り上げて、飲んで遊んでくるというのが実情で、ほんと、お恥ずかしい限り。」
と話された。
この方は時代の波にのり、たまたまその中心となるポジションに居たのかもしれない。
でも、「儲けよう」、「目立とう」という意気込みは人一倍あり、そこに純粋に動き、
結果、多くの人に助けられながらも、地域経済を動かしてきたと言える。
ここで大事なのは人間の純粋な欲求かなと。
欲求とは力強く、恥ずかしく、滑稽でもある。
時には笑われる事もある。素直な欲求表現にはあえて協力してくれる人もいる。
笑われながらも持ち上げられ、いつの間にか、先頭にたってリーダーシップを発揮する。
批判も伴うけれど、そういう人にはそれを気にしている暇はない。
次から次へと欲望は尽きないからだ。
とにかく、ここの街の人達はがむしゃらだったのであろう。
権力も何もない、単なる農地があるだけでの街で走り続けていた。
リスクの伴う決断を迫られた時も、ペテンと情熱で乗り越え前に進んでいる方達だった。
この大倉山は、そんな人達のおかげで、商店街も残り、平和に暮らせる住宅地として現在成り立っている。
このインタビュー記録は、ひとつの街のエピソードではあるが、
まさに戦後日本が形成され、発展してきた物語の縮図ともいえる。
記録映像は、街の商店街に保存される。
今後の商店街、街、そして日本の再形成に役立つかはわからないが、
未来に生きる人達にも、人間の変わらぬ本質と街の歴史のエピソードを見てほしいと思う。