白 菊

たった3発限りの真白な花火が、新潟の夏の夜空に上がった。

とっさにカメラをまわしたその日は、8月15日、終戦記念日だ。

真っ白でゆっくりと開く花火は、何を言わんとしているのか。

この花火は、新潟日報社が企画した「ホワイトピースプロジェクト」のイベント。

戦後70年を記念し、新潟県内の各地の花火大会に平和への祈りをこめた花火を上げるというもの。

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その3発の真っ白でシンプルな花火は「白菊」と名付けられ、

今年に限り、8/15に長岡の水道公園という場所でその「白菊」を単独打ち上げが行われたのだった。

今回は、長岡という街と深い由縁があるであろう花火「白菊」を取材してみた。

 

その頃、長岡市街は毎年恒例の大イベント長岡祭りが終わった時期で、街は一息ついたように静かだった。

そんな中でも夏の間は休まずオープンしているのが、長岡戦災資料館だ。

長岡の街は昭和20年8月1日にB29による爆撃を受けていたことを記す資料が並べられている。戦争体験者の方から提供された当時を思い起こした手記を見ると、衝撃的な惨状が描かれている。

当時、アメリカは、日本の早期降伏を求め、日本の都市を無差別爆撃の手段にでていた。ここ新潟の第二の都市である長岡もその標的にされていたのだ。

8/1 午後10時半 空襲警報が鳴り、B29が空を覆い、次の瞬間焼夷弾が空からおちてくる。町中が瞬く間に炎に包まれ、民間人も家もすべてが、焼け落ち、1時間40分間にわたる容赦無い空襲により市街地の約8割が焼野原になり、925トンの焼夷弾によって1486人の命が奪われた。

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(橋から見た現在の長岡市街)

 

 

 

市街にある平潟神社は、避難場所でもあったことから、多くの人が集まったが、防空壕の中で重なるようにしてほとんどの人が亡くなってしまったようだ。焼夷弾で全てを焼かれた街の中は、炎と煙から逃げ場のない状況だったと思われる。

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(平潟神社)

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(戦災殉難者慰霊塔)

 

 

 

街中が焼き尽くされ、市街地で唯一残った施設は、水道公園にある水道タンクと、信濃川にかかる長生橋とのこと。

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(水道タンク)

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(長生橋)

 

 

 

この長岡戦災資料館では、現在も戦争体験者が語り部として、戦争の悲惨さを伝え続けている。

 

長岡と言えば、「長岡まつり」の花火大会が有名だが、このお祭りも元はと言えば、長岡空襲で亡くなった方を慰霊するイベントだったのだ。昭和21年(空襲のあった翌年)には、長岡復興祭として開催されている。今では、長岡祭りのイベントとして、年々、規模も大きくなり、のべ100万人の観客を動員している。この長岡祭りは、終戦から翌年には復活し、空襲のあった同時刻(8/1 10時半)に慰霊の花火(白菊)を打ち上げ、8/2.3に花火大会は開催されることになり、それから、現在まで、慰霊の趣旨を重んじ、その日が平日であろうと日程を固定して実施されている。

今回、その長岡花火に長きにわたり関わってきた伝説の花火師、嘉瀬誠治さん(現在93歳)にお話を聞きに嘉瀬煙火工業の工場に伺った。

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嘉瀬さんは、ここ長岡が地元でもあり、おじいさんから代々続く花火職人である。長岡花火の大仕掛けを次々と生み出してきた。

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特に、ナイアガラ花火は、当時800mもあった信濃川にかかる長生橋に昭和28年に仕掛けたのが始まり。そんなに昔からこれだけの仕掛けをしていたのは偉業であったと言える。

 

 

 

 

そして、嘉瀬さん自身、軍人として参加した戦争体験者であり、北方の松輪島で過酷な環境の中で日本を守っていたという。終戦後は、シベリアへ抑留、3年間の強制労働を経て、無事日本に戻ってこられた。

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(軍人だった頃の嘉瀬さん)

 

 

 

一人の兵隊から見た戦争の悲惨さをお話してくださった。

戦時中、嘉瀬さんは、多くの戦友の死を目にしてきたという。爆撃によって足がもげた戦友は、上官に「痛いか」と問われた際に、「痛くありません」。また、最後に何か言いたい事はあるかとの問いにも「何もありません」と言って死んでいったという。

日本の軍隊は皆、厳しい教育をうけ軍人になり、最後の一人になるまで戦うという気持ちでいた。日本は負けないと純粋に信じていた。

嘉瀬さんは、目頭を熱くしながら、さらにその時の気持ちをこう続けた。

「終戦が決まる頃、当時は、せめて敵を何人か倒してから自決しようと本気で思っていた。他の戦友たちもみなそう考えていたと思う。ただ、それは上官がとめてくれた。そんなことをしたら、内地の家族などが苦しむ事になる。ただただ、何をされても我慢しろと。今でもはっきりと覚えている、どうしようもない苦しみだ。」

戦争は始まってしまったら、止められない。

勝てば官軍、負ければ賊軍というように、最後の最後まで勝つことしか考えられなくなってしまう。当時は情報もなく、全容が見えないまま、現場の兵隊は進むのみ。目の前の相手を倒すことに精一杯であったという。

「人間として最低の出来事だった」と。

その後これまで、戦争の体験、戦友の事は忘れるはずもなく、時は経った。日本は戦後から復興し、大仕掛けの派手な花火もたくさん創られるようになる。

そして、嘉瀬さんは、ずっと思い続けていた事を実現する事になる。

無念に亡くなっていった戦友の精霊が安らかに眠れるよう、嘉瀬さんは鎮魂の花火を創造したのだった。

戦友を思い起こし、湧き上がる感情が花火に乗り移った、その花火を「白菊」と命名したのだ。

その「白菊」を最初に打ち上げたのは、1990年 シベリア。終戦後、嘉瀬さんが抑留されたその地だった。嘉瀬さんはどうしても、戦友が亡くなったこの地で花火を打ち上げたいと懇願し、その話を聞いた関係者たちは嘉瀬さんの情熱に動かされ、当時のソビエト側もペレストロイカの時代であったこともあってか、協力的に賛同し、アムール川のほとりで花火大会が実現される事になった。

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(ソビエトでの花火イベントのポスター)

 

 

 

当時のソビエトでは当然日本の花火大会が開催されるのは非常に珍しいことで、多くの現地の人々に感激を与えるイベントになったという。

ちなみに、こちらは、ソビエトの子供の描いた画

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初めて花火を見た子供は、嘉瀬さんが手から花火を出す魔術師だと思ったのだろうか。

 

 

嘉瀬さんは、花火師としてお客を喜ばす事が仕事だが、この時ばかりは1人の人間として花火を使って自身の思いを表現したかった。個人的な思いをのせたのはこのイベントが最初で最後だと。そしてそれは、多くの関係者に賛同をうけたのだった。

以降「白菊」は、今や全国で、鎮魂と平和祈願の花火として、日本の夜空に打ちあがっているのであった。

『白 菊』

戦友の魂を表現し、透き通るような一色の白、

やんわりと優しく咲く花。    (嘉瀬 誠治)

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その花火は、従順で純粋な日本人の心だと筆者は感じた。