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就活クライマックス

 就職活動真っ盛りの季節でしょうか。

最近は、企業のリクルート用動画を制作しています。

人口が減少し続ける中、各企業は新卒者の採用にあらゆる場面で競争が強いられます。

小さな企業になると、ネイムバリューもないため、きちんとした業務をされているにも関わらず、ほとんど応募者が来ないという状況が昨年から続いているそうです。

リクルート用動画は、そんな名も知れない企業の良い所を引き出し、

具体的には何をしているのか、実際働くとどんな良いところや、厳しいところがあるのかを伝えるものを作っています。

ここで思うのが、就職活動をする学生さんの心境です。

学生さんそれぞれに、あらゆる動機があるのでしょうが、

とりあえず大手企業を片っ端から受けてみるというのが、最近の傾向のようで、

どの会社に入りたい、どんなスキルを身に付けたいといった具体的な志望動機をもっている子は少ないそうです。

最近、地域の番組制作などで大学生とお話する機会が多く、分かったことなのですが、先述の理由としては、現在就職活動をされている世代の方は比較的、親の収入が薄く、幼少から不安定な生活感を抱えており、まず人生の目的として、安定して暮らしていける事が第一にあるようです。

20代後半で結婚をして、マンションを買い、共働きでいくら貯金して、子供には不自由なく学校に通わせ、老後の計画をたてる。そういったビジョンを最初からしっかりと持っているようです。

そのため、何をしたいかが優先ではなく、どの企業がそのビジョンに見合うかで、就職活動をされている学生さんが多いという事です。

それに反応し、大企業は、現在甘やかしの社員育成方針をとっています。まず、時間のかかる難しい仕事や、苦労を伴う仕事は最初からさせない。そして、研修制度の充実、さらにはメンター制度まで取り入れているようです。

新入社員それぞれに、メンター社員が付きます。それは現場の上司ではなく、専門のサポート役の社員だそうです。新入社員の相談役でもあり、仕事の悩みを解消し、スキルアップ、キャリアアップのためのアドバイスももらえます。

実際にそんな事ができているのかどうかはあやしいところですが、求人にはそういった制度を掲げる事で、新卒者を引き付ける手段になっているようです。

大企業が社員が若手社員が辞めないようにと、妙に気を使うという不思議な状況に感じます。そんな状態で育成された若手社員は、社会経済を引っ張る大手企業のたくましいリーダーとなっていけるのでしょうか?

とそれは、さておき、ちょっと待てよ、

我々の仕事において、今までの話を置き換えると、どうも噛み合わない!

我々は、テレビ番組制作や映像コンテンツの制作という比較的クリエイティブなお仕事をさせていただいているのですが、まずは、スキルアップ、これは特に研修を受けているわけではなく、現場の仕事をこなし、失敗を繰り返しながら身につき、業務後に自分で復習、検証する事によってスキルが上がっていくもの。

解らないところは、自分で勉強したあと先輩に聞けば、情報が倍になって教えてくれる。要はその身についたスキルというのは、丁寧に誰かから教わって得られるものではなくて、自らの経験で得ている要素の方が強いのです。少なくともそうやって得たスキルやノウハウは、何にも代えがたい充実と歓びです。

また、メンター制度に関しては、目的は親身に相談に乗って悩みを解決する事だと思いますが、これも、現場で懸命にもがいて、音を上げたりする事で、先輩が見るに見かねて、ごく自然に相談に乗ってくれるものだと思います。

「じゃあ、飲みにいくかぁ」って。

就業規定や教育制度を体系化して、社員の採用や育成を行うことも一つだと思いますが、まず、仕事をして歓びを得られるという感覚がなければ、教える方も、教わる方も愛情を持って人と接し、社会と接することはできないという事だと思った次第です。

ただ、その歓びを得られなくなるほど、仕事を押し付けるのは絶対NG!

 

『卒園おめでとう』

世の中には様々な映像がありますが、

私藤川は、個人的に幼稚園などの記録映像もお仕事にさせていただいています。

先日は、私が昔から馴染みのある幼稚園にて記録撮影をしてきました。

もうすぐ桜が咲き始めるかといった季節、今回の題材は、卒園生の「お別れ会」です。

「お別れ会」の内容は、保護者の方が主催で、手作りの演劇やショーを演出し、先生方と子供達に披露するというもの。

今回のメインコンテンツはパネルシアターで、子供達の幼稚園での思い出をストーリー仕立てで進行するもの。
パネルに張り出すイラストもプロ顔まけに凝っていて、おそらく時間をかけて準備してきたんだろうなと思わせる素晴らしいクオリティでした。

最後に子供達が書いた自分の似顔絵が、一枚一枚貼られていき、ナレーター役の方が子ども達の名前を都度呼んでいく演出。

幼稚園で過ごした3年間が走馬灯のようによみがえる瞬間で、

先生も、お母さん達も涙がとまりません。

そして、自分は直接関係ないのにもかかわらず、感情移入してしまい、涙があふれそうになったほどです。

今回の撮影は、1つは手持ち、他2つはリモコンで操作するシステムにしていて、一人で3カメ。泣いている暇は毛頭ないのですが、、、

※ちなみにこういったイベントの記録撮影は、ほぼ参加者全員が映り込んでいないとならない事情もあり、カメラマンが一人だろうが、3カメ以上は必要なんです。

自分の苦労はさておき、こらえていた涙腺を崩壊させるコーナーがやってきます。

先生達からのメッセージコーナーで、担任の先生が泣きながらこんなお話をしてくださいました。

「もう幼稚園に来たくないです。あと数日でみんなに逢えなくなると思うと、それが辛くて出勤したくないんです。」「お願い、卒園しないで~って」

「で、そんな事を子供達に先日話したら、こんな事言う子がいるんです。

園児『先生、泣かないで。大丈夫だよ、卒園してもたまには遊びに来るからね』って。

「そんなふうに子供達になぐさめられて・・グスングスン」

先生、気持ちはよくわかるんですけど、

こういう話はイカンよ、カメラがふるえとるじゃないか!

とにかく現場は、涙腺崩壊ムードなので、必至です。

 

幼児の子供って、ものすごい純粋で元気なんですよね。

当然、ドストレートに発言するし、本当に走り回っているし。

だから、NG カットも実は多いんです。なるべく、自然な姿を残したまま仕上げる方なのですが、これはさすがに残さない方がいいだろうと思うNGワードもあったりします。

でもそれが子供じゃないですか、「ウ〇コ!!」とか叫んでる方が、活き活きしてていいですよね。先生に抱っこをせがむ子、まだそんな年齢じゃないですか。

泣きながらお話していた先生の話、子供に信頼されてるなあって思いました。

この園の教育方針というか雰囲気は、ものすごく自由で、勉強というより遊ぶ事を重視していると思います。で、間違えていたらしっかりと怒るのはあたりまえですが、先生達と触れ合う、肌でコミュニケーションをとる時間が多いような気がします。

そういった1年間で、先生もそれぞれの園児の特徴や成長度を理解しながら、それぞれの子に丁寧に話をしているようです。目の前に居る相手の事、お友達の事を気遣う、優しくしてあげる、当たり前の事のようで、なかなかできなかったりしますよね。

感性や感受性を育んでいく、見守っていく。それが、この年齢の子供たちにすべく教育なんだなあと改めて思った次第です。

そんな日々の成果が、この先生に対する子供の名言だったと信じてやみません。

というような感動のおすそ分けをいただくお仕事で、こちらも幸せな気分でした。

卒園生達へ「情が深い、良い先生に恵まれて良かったなあ、本当に、卒園おめでとう!!」

 

地域防災

ここ10年においても、大きな地震が頻繁に起きている。

全く他人ごとではないし、いつ自然災害が起こるかは誰にもわからない。

その脅威に対して、私が取材する地域という単位においても、今後の災害対策が

重要課題となっている。

つい先日発生した熊本地震でも、多くの建物が倒壊し、ライフラインが失われた。

その緊急時に、建物に閉じ込められた人や、身動きのとれない高齢者を助けるのは、まさに近所に住む人であり、そこにあるコミュニティ組織の機能が試されるといっていいだろう。

国や自治体の救助組織は当然ながら一度に全ての人を救出できない。災害医療において、72時間という壁が、人命を救うタイムリミットと言われており、地域の人達の助けに頼らざるを得ないのが実情だ。

今後の対策として、地域という単位で何ができるのか?どんな準備が必要なのか? それぞれの地域の人口や、地形など環境の違いから、対策は千差万別となるが、今回は、2つの地域(ケース)における対策に注目し、取材した内容を紹介したいと思う。

◆1つ目の地域は、川崎市、東横線の「元住吉」駅前に位置する「モトスミ オズ通り商店街」。この商店街は、今年28年度の総務省の主催する『防災まちづくり大賞』にて総務大臣賞を受賞した。

まずはその中身を商店街の理事長にきいた。

2011年3.11の東日本大震災、この時、ここ川崎市の元住吉駅前でも混乱が見られた。この地でも震度5強を観測、この地域の主要路線である東横線も運行を停止した。駅前には帰宅困難者が続出し、商店街には右往左往する人々があふれていたという。また夕方になると、道路上は渋滞し、歩道には都内から徒歩で帰宅する人々がひしめき合っている。

いざ災害が起きると、商店街のお店も早々に店じまいし、買い物をする場所もなく、混乱は膨れ上がり、街中が機能不全に陥ってしまう事態に到る。

そんな時、助け合うどころか、自分の事だけを考え、水や食糧を大量に購入したり、高齢者を差し置いて逃げたりとしてしまうのが人間の性でもある。

それを目の当たりにした商店街の理事長は、商店街組織で何かできないものかと考えたのが始まりだ。

まず、その時の混乱を反省すべく、地域の人達にアンケートをとり、その傾向と対策をまとめた『安全ぶっく』という冊子を街の大学生達と共に作成した。そこには、3.11、この街ではどんな事が起きていたのかの事例や、住人の人達はその時、商店街に何を求めていたかをヒアリングした結果が記されていた。

困った事・・ 

・電車に乗れない⇒駅のトイレが渋滞

・店が閉まっている⇒食糧や水が買えない。

・震災後、自粛ムードで商店が閉まっていて、帰り道が暗い。 など

商店街に期待したい事・・

・災害時、商店街のトイレを開放してほしい

・食糧や水の備蓄をお願いしたい。

・買い溜めする人の対策をとってほしい。

・自家発電機を設置してほしい。

・輪番制で特定のお店を開けておいてほしい。

・災害情報などの掲示板を設けてほしい。

など多くの声が寄せられた。

商店街は衰退していると言われている昨今でも、実は、こんなに多くの事を求められている事が分かったのである。理事長はこの事実を各商店に訴えかけた結果、賛同した各商店が以下のような対応をする事に。

ラーメン店:お米を備蓄。プロパンガスによる調理の継続。

店主「万が一の事態に備えて、お米の買い付け量を常に増やし、いつでも多目に炊けるようにしています。また入れ物も必要なので、とりあえず、500個、お弁当の簡易容器を準備してあります。」

メガネ屋さん:手回し式の懐中電灯の販売を開始

店主「あのとき、乾電池があちこちで売り切れていましたよね。手回し式の懐中電灯であれば、もっとお客様のお役に立つのではと」

喫茶店:緊急避難所として開放。

店主「3.11当時、いったん店を閉めたのですが、外へでると状況がわからず困っている方がたくさんいて、とにかく居場所のない方のために再度店を開け、中でお待ちになるようにすすめ、トイレは店のお客様以外にも貸すことにしました。」「もし今後、同じような事が起こったとしても、このような事でしたらお客様のお役にたてると思います。店の中は暖かいし、とにかく座れればだいぶ楽ですよね。一人でいると心細いけど、知らない人同士でも店内で一緒に過ごせれば、少しは心強いかもしれません。」

さらに、「安心安全まっぷ」と題し、災害時、商店街の中でどのお店が空いていて、どこのトイレが使えるかを記した地図を作成した。それぞれの店舗が自分にできる事を提示し、協力し合える街づくりを目指している。

しかし、課題も山積みだ。

1.お客様の要望にもあった、食糧や水の備蓄。どうすれば組織的に、十分な食糧の維持ができ、無駄にならぬように運営するか。ここには、莫大な予算がかかってくる。

2.建物の耐震強度の表記、逃げる時に、どの建物が安全かの目安になるよう、耐震強度を測定しその情報を公開したいのだが、強度の低い建物の持ち主は当然反対する。

3.町内会、住民との連携、災害時の連携プレイを図るため、どこに誰が住んでいるかを細かく把握したいのだが、個人情報の観点からスムーズには情報が収集できない。

4.町内放送設備の予算確保

5.災害時、組織的に高齢者や身体の不自由な人を助けたいのだが、体力のある若手の人材が不足している事。

など、今も商店街の理事長は、多くの課題に向かい、街の人達とのコミュニケーションを怠らない。

◆2つ目の事例、横浜市のマンションの自治会

築40年、10階建の大型マンション、今でも約600世帯の人が住んでいるが、住人の高齢化が著しくすすんでいるマンションだ。

こちらでも、3.11以降、災害時の対策を緻密に考え始めたという。

「自助」「共助」で命を守ろう。

最近では近所付き合いもなくなり、お互いが助け合うという精神が希薄になってきている中、マンションの自治会でも組織的に相互補助のシステムを作り、災害に備えようとなったのだ。これが「共助」にあたる。

通常の管理組合の他に災害対策委員会を設置。住宅管理組合と町内会から必要経費が組み込まれ、委員は毎年選出、現在12人が担当委員となっている。

災害が発生すると、行政と同様に災害対策本部が設置され、被害状況の収集、組織的な救助、備品の配給などを実行する仕組みを確立した。

高齢化の一途を辿るマンションで、特に課題となっているのが、災害時の安否確認だ。10階建、10棟におよぶ約600世帯の確認を迅速に行える体制を整えるため、各階段の担当2名(1~5階、6~10階)の確認担当者を置き、それぞれの担当者から災害対策本部が情報を収集し、救助にあたるという連携プレイだ。

また、安否確認マグネット(住人が災害時に無事を知らせるためのマグネットをドアの外に張りだすというもの)を採用し、部屋の中が見えづらいマンションの特性を逆手にとり、安否確認をより効率的にしている。

また、マンションではエレベーターが使えなくなれば、階段を自力で降りて非難するしかない。身体の不自由な高齢者を迅速に非難させるために、タンカーを使った移送訓練や、上記の安否確認訓練を年に数回行い、シュミレーションを徹底している。

そして、今回、災害対策の最重要事項だと、マンションの災害対策委員の方がお話してくれたのが、実は『トイレ』である。確かに電気、ガス、水道のライフラインが停止すれば、通常のトイレとして機能しなくなるのは当たり前だが、食糧や水、寝る場所を確保するよりも、トイレに行く事が最も難しくなるという。

 これは、意外であったが、これまでの日本に起きた震災の教訓で明確になっている事で、報道ではあまり取り上げられていない。食糧や水、寝る場所の確保は『公助』(国や自治体)に頼り、なんとかなってきたが、トイレは、『公助』でも物理的に補えない。しかも、マンションにおいては、特有の問題もでてくる。

なんと、震度5弱以上になるとこのマンションではトイレは使えなくなるという。

その中身はこうだ。

マンションという共同住宅の建築構造上の問題である。

排水管の一部が破損すると、水道自体が止まっていなくとも、1世帯が排水をした際に、その破損した箇所から水漏れが起き、1階まで落ちた汚水が、逆流するという現象があるという。そのため、排水管に損傷を及ぼす震度が発生した場合は、マンション全体で、トイレ、排水の禁止をするという事になっている。

無論、上下水道共に水道管が破損した場合は、行政上使用禁止だが、例えばその時お風呂に貯めていた水を利用し、トイレや排水を行うと、上記のような被害が起きるため、いずれにしても、マンションにおいては、排水の禁止となる。

となると、水があっても、トイレ自体が損壊していなくても、使えない!

さて、そういった状況にどう対応するかだが、個々人で準備、対策をする『自助』での解決でしかない。

災害対策委員で推奨しているのが、所謂トイレパックだ。

便器に専用の蓄便袋を設置し、要を足したら砂のような凝固剤で固め、密封する。そしてゴミとして処理するという極めてシンプルな手法だ。1人1日5回として、30日分以上のトイレパックの備蓄を推奨している。

公助である国や自治体が用意する避難所や仮設トイレでは、当然、人口の多い地域を賄いきれない。熊本地震においても、仮設トイレに多くの人が並び、2~3時間待ちや、清掃が間に合わず、非常に劣悪な環境になっているのが現実だ。

そのような状況で、女性や高齢者は、なるべくトイレに行かないように我慢したり、水分を採らないようにしてしまい、トイレが原因で体調を悪化させてしまう事態が起きているようだ。

マンションでは特に、トイレ使用不可になる可能性が高いため、命を自ら守る「自助」の準備が必要だと対策委員会は、日々、トイレパックの備蓄を呼びかけている。

 

これまで例にあげた川崎市、横浜市には併せて500万人以上の人口をかかえ、30年以内に大地震が起きる確率が高い地域ともされている。この500万人規模の災難を国が全て支えてくれるとは到底期待はできない。

だからこそ、それぞれの地域(共助)、自分自身(自助)での準備が急務であると考えられる。

 

いま、町内会は必要か?

地域の取材をしていると、必ずといっていいほど町内会の問題にぶちあたる。

横浜市のとある街では、小さな規模ながらも、年中、お祭りや催し物が行われている。主催するのは、町内会や街のボランティア、商店街の人達だ。

 

その目的は、街の人達の交流という事が表向きであるが、もっと根深い問題を解決すべく一つの手段であるといった方が正確だ。

地域という狭いエリアの中で、今、何ができるかが、本格的に問われている。

それは、国を挙げて課題としている少子高齢化問題だ。

特に、高齢化が町内会の運営に影を落としている。

祭りごとなど、街のイベントを運営する町内会の役員は、持ち回り制であったりするが、それに参加できる人員が不足している。

近年、地主が切り売りした土地に所狭しとマンションが立ち並び、核家族化が進み、地元の一軒家に出戻りで2世帯が住むというケースもだいぶ減ったという。

最近では、町内会に加入しないマンションが多いのだ。マンションには管理組合があり、町内会と同じような事をやっている組織でもあり、特に町内会への参加は必要ない、むしろ色々と面倒だと考えているのかもしれない。

住人は増えたとしても、町内会の活動に参加しているのは引退を待ち望む高齢者ばかりで、体力も気力もなくなれば、当然、町内会の仕事に参加できなくなる。

今は、腰を曲げながら、病気を抱えながらも懸命に活動を続けているのが現状だ。

町内会長は言う、

このままだと、町内会の消滅も有り得る。街の運営をアウトソーシングせざるを得ないかもしれないと。

町内会というのはそもそも、行政と連携しており、福祉、防犯、防災、交通、教育などの場面で活動が幅広い。その重要性を、再考すべき時代がきたと言える。

その一つが、『独居高齢者』対策だ。

この街に住み、30年。 奥さんは3年前に他界し、御年80歳のAさん

子供達は他の土地で暮らしている。大きな病気こそないが、足腰が不自由で立ちあがり、歩行の動作に支障があることがあるという。

要介護1を認定されている。

近年、厚生労働省は、保険財政の悪化を懸念し、介護保険制度の見直しを計っている。来年度にも、多くの見直しが実施されそうだ。 中には、要介護1.2の「軽度者」に対してホームヘルパーが訪問介護で行っていた「買い物」「調理」「掃除」といったサービスを給付対象から外すという検討事項がある。

Aさん「そりゃ困るね、今まで200円でやってもらったことが保険適用外となると2000円以上にまでなるでしょ?」「そりゃあ無理だよ」

介護保険のサービスが減少することで、利用者の負担が増える。

もはや、国にも頼れない時代となったと言える。

ご家族も、週に1度は来るものの、それ以外は仕事をしている中で、なかなか介護に時間が割けないのが現状だ。

このように国が介護問題をカバーできなくなってしまうと、各自治体がその役割を担わざるを得ないと考えられる。

横浜市の職員いわく、市内でも、高齢者の増加は目に見えていて、それに対応する人材が圧倒的に不足している。

来年度の介護保険制度改正にむけて、今年度から生活支援職員、コンサルティングを増設、また高齢者支援の予算を増やし、対策を講じようとしているところだという。

何より、各自治体が地域のケアプラザ、町内会、民生委員、街のボランティアの方と連携して対応する事が最重要事項だという。

要するに、介護保険外の受け皿としてそれぞれの地域で助け合う事が求められていると言えるだろう。

独居高齢者の見守りを率先して行っているのが、民生委員だ。民生委員は町内会から推薦で選ばれた人、その土地や住人の事をよく知っている。

この街の民生委員のKさんは、民生委員を始めたばかりだが、以前から町内会の行事に参加していたという。

民生委員の業務は幅広いが、その一つが高齢者の見守り活動。

75歳以上の一人暮らしの家をまわり、郵便物は貯まっていないか、窓が空いているかに注視し無事を確かめる。

現在、Kさん一人につき、およそ20人の高齢者を担当している。

もちろん、今後、該当する高齢者が増加し、受け持つ人数も増えるであろう。

Kさんが特に心掛けているのは、高齢者を一人っきりにしない事、外に連れ出し、一緒に食事をする場を設けたり、仲間と会話をする機会を作る事にあるという。

確かに、一人っきりで部屋に閉じこもってしまわれると、健康状態を確認する事すらできないからだ。

何より、孤独ではない、街の仲間が居るという気持ちの面でケアするべきだという。飲み会やサークル活動にとにかく誘うのだが、女性は、お話好きで積極的に参加するものの、男性は面倒くさがって引きこもってしまう方が多いという。

「自分は一人で死ぬから、もういいですよ」と断られる。

衝撃的だが、これが現代の日常でもあり、所謂「孤独死」は全国的に増加しているのが現実だ。

さて、町内会の話に戻るが、町内会長は、高齢者対策に関してこう話す。

『とにかく、一人にしない事。』

一緒にテーブルを囲む事が大事だと思うし自分たちに出来うる事だと実感している誕生会などの記念日は、皆でお祝いをする。

また、町内会で集めた予算から高齢者へのサービスを行っている。

65歳以上の方の名簿を毎年つくり、高齢の日には菓子折りなどのプレゼントを配布する。そういったところから、交流をはかることが大事。

うちの町内会は高齢者と、子供会に力をいれ予算を配分している。

とにかく、年老いても、老人ホームなどの施設に入らなくても済むようにしたい。街全体が福祉を支える組織を作りたいと力がはいる。

さらに、この街には福祉協議会、町内会、ボランティアが一体となって運営する高齢者向けの独自のサービスがあるという。

町内に住む65歳以上に向けたサービスで、買い物、掃除、洗濯、ゴミだし、草取りなど内容は多岐に渡る。

1時間600円と有料だが、介護保険のサービスが縮小される中、依頼が増加しているという。

実際に、その作業にあたる人はほとんどがボランティアの人達。これも、町内会からの呼びかけで参加してくれる人も多く、現在60人ほどのスタッフが登録され、売上の中からボランティアさんへの謝礼、備品の購入を補っているという。

・利用者の方の声。【会報誌より抜粋】

Iさん:加齢のせいか、掃除がだんだん負担になっていました。週1回でも掃除をお願いしたところ、掃除のあとは気分もすっきりして本当によかったと思います。これからもお願いしたいです。

Yさん:私は男性で後期高齢者です。歩行が多少不自由なため、高いところの作業ができなくなりました。たまたま街の掲示板でこの地区にこのサービスの案内があり、早速困っていた庭木の枝払いやゴミ収集ボックスの看板の取り付けなど、高所の仕事を依頼しました。作業にあたってくれたボランティアさんは、みんな親切で安心してお任せできます。 いざ困った時は、この街のサービスを便りにしています。

一人暮らしであっても、介護施設などに入居するのを少しでも遅らせ、自立した快適な暮らしを支援している。というのが、町内会やそのサービスの趣旨だ。

このように、高齢者の見守り、孤独死の防止、生活していくために助ける事を街全体が協力して行っている。

町内会という街の組織があるから、お金が集まり、人が集まりその力が目的を持った活動につながる。高齢者にならないと実感しないことかもしれないが、遠くにいかずとも、住んでいる場所で快適に暮らす事、その環境を作っているのが、町内会や地域のボランティア団体であり、今後は、近所、仲間で支え合う、助け合うという意識がなにより重要になってくるのではないかと思わせる取材であった。

 

みそスープ アーティスト

そこは、弊社(ニュービデオ)の所在地である恵比寿

恵比寿といえば、代官山に隣接した、オシャレで
ハイセンスな大人の街。
その街の真ん中をはしる駒沢通り
沿いに、
1件の古めかしいラーメン屋があった。

そのラーメン店の閉まったシャッターに貼られたチラシを観ると、
「閉店のお知らせ」、また、お客さんと思われる方々からのメッセージが貼られている。

やまだ閉店のお知らせ

 

通りゆく人の中で、ポツポツとそのチラシを
立ち止まって見る人達がいる。 まじまじと何度もそのお知らせを読み返しているようだ。このお店の常連だろうか。

 

 

そのラーメン店は、
『らーめん山田』
恵比寿で47年の老舗だ。 地元では人気のお店で、多くの常連客で、
日々満席、時には行列ができるほど賑わっていた。

サッポロ味噌ラーメンを基礎にしたラーメン専門店なのだが、
実は、もうこのラーメンは二度と食べれない。

数ヶ月前、店主がお亡くなりになり、同時に閉店したのだ。

突然の閉店に、この店に通う常連は衝撃を受けた。
え、ほんとに・・ 店主と、その店主が作るラーメンと、、もう会えないの?

自分も、ショックを隠しきれなかった。
失礼かもしれないが、正直店主のイメージというか人間像が自分の記憶にはあまりない。
お店にはたまに行くだけで、ある強烈に印象に残っている一杯のラーメンを食べるためだけに足を運んていたからだ。

何よりショックだったのは、そのラーメンにもう二度と会えないかもしれないという事実だ。 不安と後悔の念。
最近は食べていなかったから、なおさらだ。
その後、らーめん山田では、所謂ラーメン葬が催され、お焼香に非常に多くのファンが集まり、店主とそのラーメンを偲んだ。
ラーメンファンも多いが、店主と親しかった本当の常連さんもたくさんいらっしゃった。

数か月経った今もまだ、店前を通るたびに、赤い看板を目にするたびに、切なくなり、
あのラーメンが食べたくなる、もう一度だけでも食べておけばよかったと、
とりとめのない思いにふける。

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<画像転載>

 

そしてある日、らーめん山田の女将さんに会う事ができた。
自身の仕事柄、取材をする事には慣れっこだが、今回はこのラーメン店の一ファンとして、女将さんにじっくりお話を聞かせていただくことになったのだ。

ラーメンが食べられない代わりに、お話を聞こうってわけじゃないが、
話だけでもと心の穴を埋めようとしていたのは間違いではない。

最近片付けはじめたという雑然とした店内、
ラーメン葬で飾られたという店主の写真パネルを観ながら、
女将さんはうれしそうに話始めた。

IMG_5073

 

「イメージと違うでしょ、こんな陽気な人だったんですよ~」

 

 

 

店主は、享年62歳  山田 章夫 さん
死因は心筋梗塞だったそうで、亡くなるには、早すぎるお歳だ。

パネルに貼られた写真をみると、気さくな店主の素顔が垣間見える。
営業中のお店では、厨房の中で黙々とほとんど言葉を発さず調理している姿しか見たことなかったので、意外な一面があったのだと気づかされる。

このラーメン店は、40年前に恵比寿で開店し、家族経営でずっとやってきた
L字カウンターに、テーブル一つ、昔懐かしい風情のある店内。

当時は、恵比寿とはいえ、飲食店も少なく、
ラーメン店といっても、所謂らーめん専門ではなく、メニュー豊富な定食やであった。
お客さんも次から次へと来るわけではなく、常連さんと店主がテレビを見ながら
お話できるような、のんびりとした様子だったという。
メニューの中には、とんかつ定食もあった。
ある時、常連のお客さんが何を思ったか、店主にこんな提案を、「このラーメンにとんかつのっけてくれえ!」と。

なるべくお客さんの要望にこたえようとする店主、
その場で揚げたてのとんかつを乗っけたんだという。

人気メニュー「みそトンカツラーメン」の始まりだった。

とんかつ味噌ラーメン2

 

 

 

<画像転載>

 

 

これが、自分が惚れた一杯のらーめんだ。思い出すとたまらなくなるが、
食べたことのない人は想像がつきずらいのではないか。

まず、とんこつラーメンの「とんこつ」ではない「とんかつ」そのものだ。
そして、これは、濃厚なイメージが湧くかもしれないが、
決してそうではない。

あっさりとした札幌系の味噌ラーメンの上に、
めちゃくちゃ美味い“とんかつ”が丸ごと乗っているのだ。

見た目は、重そうにも見えるが、実は程よいのだ。というか、とんかつの美味さが異常事態だ。味噌ラーメンを食べているのに、なんだこれは!?と驚きと感動がそこにはあるのだ。
そこには、違和感はない、なぜかラーメンとマッチしている。

店主は、とんかつそのものにもこだわったようだ。
豚肉、ラードもとんかつ専門店にも負けないほどの上質なものを使い、
一級のとんかつを惜しげもなくらーめんに乗せていたのだ。

そして、何よりも、この味噌スープ、
特段、人に興奮して勧めるものでもないし、ごく普通なんだけど、
なんだか、美味い! いつでも飲める、飲みたくなる。
「あったかい」、「しみる~」「うまい!」と素人ながら普通の感想しか言えないんだけど、それがズドンと心にささる。

女将さんとお話をして、そのスープの秘密が少しわかった気がする。

女将さん曰く、
店主のスープに対するこだわりは、傍にいてコワいくらいだったという。

店主は元々、らーめん店を始めたくて開店したわけではなく、
親がやっていたラーメン店をなんとなく引き継いだ。ところが、時代はらーめんブームに入り、佐野らーめんとか、個性的な専門店がもてはやされるようになってからは、
その時代のながれに感化されたのか、
特にラーメンのスープに対し、とても研究熱心になり、自分の味を追求するようになったのだという。

ラーメンブーム以降、定食屋からラーメン専門店となり、
心身共に疲労困憊するほど頑張りすぎて、身体を壊し、営業時間とメニューを限定するようになったという。
というのも、信じられないことに、スープを毎日、1杯毎に味見して、味の調整をしていたという。
もちろん、ベースの味は決まっているものの、
時には、常連のお客さんに合わせたスープを都度調整し、提供するんだという。
お年寄りにはうす味を、労働者には少し塩分を濃くするとか、まさにオンリーワンのラーメンを。

そして、日々、味の追求を欠かさない。
仕込みにも時間をかけ、味の改良に余念がない。
もうその頃には十分にお客さんは定着していただろうに、執拗に、味の変化を求めていた。

そこには店主のこんな信念がある。
「常にお客様の一歩先の味を提供しなければならない。
同じ事をしていたら味が落ちたと言われる。
その時に一番美味いと思える味を追求する。」

自分は素人考えで、
ラーメンのスープって変わらない味を保つものかと思っていたが、そんな事じゃあなさそうだ。

客として「相変わらずおいしいな。」と思うのは、味が変わっていないというわけでは
なく、むしろ進化していたからだったのかもしれない。
『飽きない味』と『同じ味』は決してイコールではないようだ。

そんな店主の味に対するストイックな姿勢は、日に日に強くなっていったという。

それと同時にお客さんは次第に増えていき、
昼の営業前には、いつも店の外にお客さんが並ぶようになっていった。

有名店を目指しているわけでもなく、宣伝もなにもしていない。
店主は、目の前にいる客の事を第一に重んじていたようだ。

お客のほうからその小さなお店から発せられるオーラに吸い込まれていったのであろう。
自分もその一人だが、
初めてその味噌スープを飲んだとき、なんだか幸せな気持ちになったのを覚えている。

そのスープについて、店主はさらにこんな事をつぶやいていたという。
「毎日、味見して飲むものだから、自分のためにも身体によいものを作らないとな、
日本の食文化である『味噌汁』のようなイメージ」と。

店主の狙いは、確実にこのスープに表現されていた。
絶妙な甘みと塩っけ、やさしくて、ほどよく温まる、癖のないシンプルな味。

人々は自然とその味に馴染み、らーめん山田の虜になるのだ。

それから、店主は、プライベートでも味の話をするほどに、人生をらーめんに費やした。
とにかく命をかけてラーメンに向かっていた。
亡くなった時、やり尽くしたかのような表情をうかべていたという。

亡くなる前、病院のベッドで、薬で意識朦朧となっている中、
「ボク、恵比寿でラーメン屋やってるんです。結構有名みたいです。」と
その時ばかりは、はっきりとお医者さんにお話したという。

さて、
無き店主の思いやこだわりをここまで聞くと、
本当にもう食べられない、当然食べる事はできないものだったんだと
納得できる。

むろん、店主はこのらーめん店を一代で終わらせるつもりでいたし、
弟子もとらなかったのは言うまでもない。

誰にも真似できないし、継承しようがない
真のオリジナルラーメンだったと言えよう。

家族にも厨房は入らせなかったくらいの、味に対する執着心。
そして、
まずは目の前の人をいつまでも喜ばせハッピーにしたいという考え方。

女将さんから大変貴重なお話を聞き、『らーめん山田』の店主に敬服するとともに、
ありがとう、さようならと改めて言いたい。

白 菊

たった3発限りの真白な花火が、新潟の夏の夜空に上がった。

とっさにカメラをまわしたその日は、8月15日、終戦記念日だ。

真っ白でゆっくりと開く花火は、何を言わんとしているのか。

この花火は、新潟日報社が企画した「ホワイトピースプロジェクト」のイベント。

戦後70年を記念し、新潟県内の各地の花火大会に平和への祈りをこめた花火を上げるというもの。

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その3発の真っ白でシンプルな花火は「白菊」と名付けられ、

今年に限り、8/15に長岡の水道公園という場所でその「白菊」を単独打ち上げが行われたのだった。

今回は、長岡という街と深い由縁があるであろう花火「白菊」を取材してみた。

 

その頃、長岡市街は毎年恒例の大イベント長岡祭りが終わった時期で、街は一息ついたように静かだった。

そんな中でも夏の間は休まずオープンしているのが、長岡戦災資料館だ。

長岡の街は昭和20年8月1日にB29による爆撃を受けていたことを記す資料が並べられている。戦争体験者の方から提供された当時を思い起こした手記を見ると、衝撃的な惨状が描かれている。

当時、アメリカは、日本の早期降伏を求め、日本の都市を無差別爆撃の手段にでていた。ここ新潟の第二の都市である長岡もその標的にされていたのだ。

8/1 午後10時半 空襲警報が鳴り、B29が空を覆い、次の瞬間焼夷弾が空からおちてくる。町中が瞬く間に炎に包まれ、民間人も家もすべてが、焼け落ち、1時間40分間にわたる容赦無い空襲により市街地の約8割が焼野原になり、925トンの焼夷弾によって1486人の命が奪われた。

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(橋から見た現在の長岡市街)

 

 

 

市街にある平潟神社は、避難場所でもあったことから、多くの人が集まったが、防空壕の中で重なるようにしてほとんどの人が亡くなってしまったようだ。焼夷弾で全てを焼かれた街の中は、炎と煙から逃げ場のない状況だったと思われる。

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(平潟神社)

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(戦災殉難者慰霊塔)

 

 

 

街中が焼き尽くされ、市街地で唯一残った施設は、水道公園にある水道タンクと、信濃川にかかる長生橋とのこと。

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(水道タンク)

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(長生橋)

 

 

 

この長岡戦災資料館では、現在も戦争体験者が語り部として、戦争の悲惨さを伝え続けている。

 

長岡と言えば、「長岡まつり」の花火大会が有名だが、このお祭りも元はと言えば、長岡空襲で亡くなった方を慰霊するイベントだったのだ。昭和21年(空襲のあった翌年)には、長岡復興祭として開催されている。今では、長岡祭りのイベントとして、年々、規模も大きくなり、のべ100万人の観客を動員している。この長岡祭りは、終戦から翌年には復活し、空襲のあった同時刻(8/1 10時半)に慰霊の花火(白菊)を打ち上げ、8/2.3に花火大会は開催されることになり、それから、現在まで、慰霊の趣旨を重んじ、その日が平日であろうと日程を固定して実施されている。

今回、その長岡花火に長きにわたり関わってきた伝説の花火師、嘉瀬誠治さん(現在93歳)にお話を聞きに嘉瀬煙火工業の工場に伺った。

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嘉瀬さんは、ここ長岡が地元でもあり、おじいさんから代々続く花火職人である。長岡花火の大仕掛けを次々と生み出してきた。

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特に、ナイアガラ花火は、当時800mもあった信濃川にかかる長生橋に昭和28年に仕掛けたのが始まり。そんなに昔からこれだけの仕掛けをしていたのは偉業であったと言える。

 

 

 

 

そして、嘉瀬さん自身、軍人として参加した戦争体験者であり、北方の松輪島で過酷な環境の中で日本を守っていたという。終戦後は、シベリアへ抑留、3年間の強制労働を経て、無事日本に戻ってこられた。

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(軍人だった頃の嘉瀬さん)

 

 

 

一人の兵隊から見た戦争の悲惨さをお話してくださった。

戦時中、嘉瀬さんは、多くの戦友の死を目にしてきたという。爆撃によって足がもげた戦友は、上官に「痛いか」と問われた際に、「痛くありません」。また、最後に何か言いたい事はあるかとの問いにも「何もありません」と言って死んでいったという。

日本の軍隊は皆、厳しい教育をうけ軍人になり、最後の一人になるまで戦うという気持ちでいた。日本は負けないと純粋に信じていた。

嘉瀬さんは、目頭を熱くしながら、さらにその時の気持ちをこう続けた。

「終戦が決まる頃、当時は、せめて敵を何人か倒してから自決しようと本気で思っていた。他の戦友たちもみなそう考えていたと思う。ただ、それは上官がとめてくれた。そんなことをしたら、内地の家族などが苦しむ事になる。ただただ、何をされても我慢しろと。今でもはっきりと覚えている、どうしようもない苦しみだ。」

戦争は始まってしまったら、止められない。

勝てば官軍、負ければ賊軍というように、最後の最後まで勝つことしか考えられなくなってしまう。当時は情報もなく、全容が見えないまま、現場の兵隊は進むのみ。目の前の相手を倒すことに精一杯であったという。

「人間として最低の出来事だった」と。

その後これまで、戦争の体験、戦友の事は忘れるはずもなく、時は経った。日本は戦後から復興し、大仕掛けの派手な花火もたくさん創られるようになる。

そして、嘉瀬さんは、ずっと思い続けていた事を実現する事になる。

無念に亡くなっていった戦友の精霊が安らかに眠れるよう、嘉瀬さんは鎮魂の花火を創造したのだった。

戦友を思い起こし、湧き上がる感情が花火に乗り移った、その花火を「白菊」と命名したのだ。

その「白菊」を最初に打ち上げたのは、1990年 シベリア。終戦後、嘉瀬さんが抑留されたその地だった。嘉瀬さんはどうしても、戦友が亡くなったこの地で花火を打ち上げたいと懇願し、その話を聞いた関係者たちは嘉瀬さんの情熱に動かされ、当時のソビエト側もペレストロイカの時代であったこともあってか、協力的に賛同し、アムール川のほとりで花火大会が実現される事になった。

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(ソビエトでの花火イベントのポスター)

 

 

 

当時のソビエトでは当然日本の花火大会が開催されるのは非常に珍しいことで、多くの現地の人々に感激を与えるイベントになったという。

ちなみに、こちらは、ソビエトの子供の描いた画

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初めて花火を見た子供は、嘉瀬さんが手から花火を出す魔術師だと思ったのだろうか。

 

 

嘉瀬さんは、花火師としてお客を喜ばす事が仕事だが、この時ばかりは1人の人間として花火を使って自身の思いを表現したかった。個人的な思いをのせたのはこのイベントが最初で最後だと。そしてそれは、多くの関係者に賛同をうけたのだった。

以降「白菊」は、今や全国で、鎮魂と平和祈願の花火として、日本の夜空に打ちあがっているのであった。

『白 菊』

戦友の魂を表現し、透き通るような一色の白、

やんわりと優しく咲く花。    (嘉瀬 誠治)

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その花火は、従順で純粋な日本人の心だと筆者は感じた。

欲求が生んだ街

自身の地元でもある横浜市に在る『大倉山』にて
街を支えてきた重鎮の方にインタビューをしてきた。
現在まで5名を終え、一段落といったところだ。

この大倉山という街が形成されてきた歴史の中で、
たくさんの思いとエピソードを1名あたり2時間以上にわたりお話をきいた。
ほとんどの方が齢80歳を過ぎておりその半生をまとめたお話は、
とても重く、本来なら2時間の取材時間ですまないのだが、
要領よくまとめて頂いたことに誠に感謝いたします。

空襲で3つの家しか残らなかったとか、通りの歩道を作ったとか、
歴史的にもすごく重大な事をまとめて話してもらっている。
そして彼らは最後の戦争体験者でもあり、貴重なお話を伺える機会であった。

大倉山、そこは、横浜市港北にある田舎街だ。
元来農村であり、商店街も無かった場所。当時数少ない地主らは、戦後、GHQから役割を与えられ商店を形成したというのが、街のはじまり。
※当時、商店が無い頃は、抽選で、蕎麦屋やら八百屋やら魚屋やらを分担させられるという仕組みがあったとか。

商店が発展し、人が住み、駅ができる。
戦後の近代化事業によって、より暮らしやすい環境になり、住宅が増え、教育機関ができ、企業が土地を買い、その街の経済がまわっていく。

その過程で、街作りにたまたま関わった人、商売を始める人、公の人間として地域経済を動かす人、コミュニティを形成する人、それぞれに苦労があり想いがあり、そして今日がある。

●ある重鎮のお話

「大倉山で街作りをすることになって、商店街の建物のリニューアルから道路から
参加する場面に立ち会ってきました。しかも割と責任の重い立場で。」
「その後、街作り事業が成功し、景気もよくなると、全国の地域や街から講演の
依頼がくるんです」
「まあ、それが恥ずかしいっていうか、なんていうか。
別に自分は街作りのプロでもないし、元々農家で、戦後に商店を始めただけ。
正直、儲けてやろうとか目立ってやろうとか、そんな気持ちでしかなく、
街を興そうなんて大層に考えてないんですよ」
「だから、講演っていっても、いい加減に盛り上げて、飲んで遊んでくるというのが実情で、ほんと、お恥ずかしい限り。」

と話された。

この方は時代の波にのり、たまたまその中心となるポジションに居たのかもしれない。
でも、「儲けよう」、「目立とう」という意気込みは人一倍あり、そこに純粋に動き、
結果、多くの人に助けられながらも、地域経済を動かしてきたと言える。

ここで大事なのは人間の純粋な欲求かなと。

欲求とは力強く、恥ずかしく、滑稽でもある。
時には笑われる事もある。素直な欲求表現にはあえて協力してくれる人もいる。
笑われながらも持ち上げられ、いつの間にか、先頭にたってリーダーシップを発揮する。
批判も伴うけれど、そういう人にはそれを気にしている暇はない。
次から次へと欲望は尽きないからだ。

とにかく、ここの街の人達はがむしゃらだったのであろう。
権力も何もない、単なる農地があるだけでの街で走り続けていた。
リスクの伴う決断を迫られた時も、ペテンと情熱で乗り越え前に進んでいる方達だった。
この大倉山は、そんな人達のおかげで、商店街も残り、平和に暮らせる住宅地として現在成り立っている。

このインタビュー記録は、ひとつの街のエピソードではあるが、
まさに戦後日本が形成され、発展してきた物語の縮図ともいえる。

記録映像は、街の商店街に保存される。
今後の商店街、街、そして日本の再形成に役立つかはわからないが、
未来に生きる人達にも、人間の変わらぬ本質と街の歴史のエピソードを見てほしいと思う。